コトノハマニア

言葉を紡いで生きていく

980gで生まれた長男が16歳に。神への感謝と毒親としての懺悔。

今日は、16年前に980gで産声をあげた長男の誕生日。

生まれてから1週間が山といわれた小さな小さな赤ちゃんが、16歳になりました。

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出産後、毎日泣きながら過ごしていたこと、クリスマスを祝いに病棟を回ってくるボランティア聖歌隊が恨めしかったこと、病室のテレビカードの残数が「42」になるのが怖くて見れなかったこと、NICUのガラス越しに保育器の中にいる我が子を初めて見た時のショック(あまりに小さくて)などを、まざまざと思い出します。

あの時は「生きていてくれさえすればいい」と思っていたのに、人間って本当に勝手なもので、育てていくうちにどんどん欲が深くなり、自分が親にされた毒親的な振る舞いや、もともとの私の暴君的要素で、これまで彼をたくさん傷つけてきました。

もしできるなら、乳がんや離婚といった出来事をたくさん経験して、彼の出産時より少しは大人になっている、物事に対する考え方も大きく変わった今の自分で子育てをやり直したい。未熟なのは子どもではなく私のほうだったのです。

かなり重めのプライベート話で恐縮ですが、普通に日常を過ごしていると忘れてしまいそうなので、あらためてこの機会に振り返ってみます。

 

目次:

 

稽留流産の後、38歳で再度妊娠

34歳で待望の妊娠、12週で稽留流産(お腹の中で赤ちゃんの心臓が動かなくなっていた)。その後4年が経ち、避妊をしていないのに授からないということはもう子どもは持てないのだなぁと諦めていて、長男を妊娠したのは仕事がノリに乗ってた頃でした。

周囲の女性がみんなそうだったので、私も出産ギリギリまで働くつもりであちこち取材に出かけたり、1日立ちっぱなしでCMロケに密着したり、妊娠中もそれまでと変わらなく過ごしていました。

7ヵ月に入った頃、歩いていると股間が濡れるような感覚が時々あって、妊娠期にありがちな尿漏れかなと思っていたのです。週明けすぐに次の検診があるからその時に先生に聞けばいいや、と。

そして12月のある夜。忘れもしない料理番組「チューボーですよ!」で牡蠣とほうれん草のグラタンを見た私は、それまでずっと我慢していた白ワインがどうしても飲みたくなってコンビニへ走り、似たようなグラタンとともにワインを1杯飲んだのです。

で、もうすぐに、これはヤバい!と思いました。長年、飲み出すと止められないアルコール依存傾向に悩んでいた私、このままだと妊娠前と同じようにハーフボトルをあっという間に飲み干してしまう!そしてまた明日、ワインに手を出してしまう。ここで、やめておこう・・・

そう気づいて、酔い覚ましにお風呂に入ったのです。

そこには昨日使った入浴剤がありました。薬草がブレンドされた自然派のパック入りのやつです。酔って頭がぼーっとしていたので、コレまだ使えるかなもったいないなと、それを再び浴槽に入れてお風呂にのんびり浸かってしまった。

多分、雑菌の巣!!!

突然の陣痛で母子ともに緊急搬送

その夜中に発熱し、やがて腹痛も。最初は風邪かなと思っていたのですが、下腹部の痛みはどんどん強くなり、痛みの間隔が狭まってきます。「もしかしてこれは陣痛なのでは?」と思ったのが翌日の昼で、その頃にはタクシーに乗るのもやっと!

痛みをこらえてお腹を抱えながら病院の受付をよろよろと歩く私を、周囲の妊婦さんがぎょっとした顔で見ていたのを覚えています。

看護師さんに付き添われ、診察室へ。私が通っていたのは、有名人のお産が多いことで知られる人気のクリニックでした。検査と診察の結果、院長は「大変残念ですが、日赤へ救急搬送します」と。遅れて到着した夫とともに、医療施設が整っている大病院へ、救急車で運ばれました。

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超低出生体重児を自然分娩

その時はまだそれが原因と気づいていなかったため、ワインを飲んだことも、汚れた風呂に入ったことも、誰にも言わなかったのですが、院長の診断は感染とのことでした。

まだ26週、私のお腹は膨らみ始めたばかりで、これから赤ちゃんはぐんぐん大きくなる大切な時期です。こんなバイ菌だらけの母体にいて大丈夫なのだろうかと不安でしたが、搬送先の先生も看護師さんも、「とにかく1日でも長くお母さんのお腹にいてくれないと」ということで、絶対安静が言い渡されました。トイレも看護師さんをナースコールで呼んでベッド上で腰を浮かせて行います。

そしてお産が進まないように、お腹の張りを抑える薬(つまり陣痛促進剤とは逆の作用をする薬)を点滴されたのですが、これがつらい。薬により全身の筋肉が弱まるようで、上を向いて寝ていると、骨が喉を圧迫して呼吸が苦しいのです。

どのくらいその状態で過ごしたのか覚えていません。多分丸1日も経っていないと思います。これはもう私のほうが駄目かもしれないと思い始めた時、いよいよ陣痛が強くなり、腰を傘で突かれたような激痛が!

診察に来られた医師が、「痛いね。羊水もだいぶ少なくなっているので、このままだと赤ちゃんが危ない。出産に踏み切ります」と宣言。寝たまま分娩室へ運ばれました。

初めて味わう陣痛の痛みは本当にすさまじいものでしたが、赤ちゃんの頭が小さいだけに出てくるのはスムーズ。思い切りいきんだのは数回で、もし私の尻の下にビニールシートが敷かれていたら、生まれ出た瞬間、シュルーッ!と遠くまで滑っていってしまいそうな勢いで出てきました。そう、こういうケースでは帝王切開になることが多いのですが、なんと自然分娩で生まれてきてくれたのです。

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つらいことはすべて負ってくれた

息子は結局、3ヵ月をNICU(新生児集中治療室)で過ごすことになりました。その間、私は毎日、3時間おきに出ない母乳を搾り出し、冷凍して届けることしかできませんでした。でもよく考えたら、いちばん大変な新生児期のお世話をすべて、私は病院のスタッフの方々にお任せしていたわけです。

生まれた時からたくさんの点滴につながれ、ミルクを口から胃に入れていたため泣き声すら届かず、輸血をされ、未熟児網膜症の治療をし、いちばんつらい思いをしたのは、息子でした。次男の通常分娩を経験した今となっては、この時のお産がどんなに軽いものだったかがわかります。出産含め、母親の大変な部分を全部彼が代わってくれたのだと親しい友人に言われましたが、本当にそうだと思います。

それにそういう特殊な環境で生まれてきて、元々おっとりしておとなしい子だったから、私でもなんとか育てられた。これが私によく似ている気性の激しい次男が先に普通に生まれてきていたら、思うようにならない子に多分、私はキレて手をあげていたと思います。

よく、赤ちゃんは生まれる前に空から父と母を見ていて、自分で選んでやってくると言いますが、うちの場合は長男が次男と話し合って、「あのお母さんじゃ、いきなりお前は無理やから、オレ先行くけん。あとからおいで」と長男が言って、先に生まれてきてくれたような気がするのです(だから次男は最初に亡くなった子の生まれ変わりだと思っています)。

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過干渉で自主性が育たず

こんな経緯で生まれてきた子だったので、感染やケガが怖くて、私は超過保護に育てました。あれもダメ、これもダメ。そこは危ない。私が先に手も口も出してしまうから、彼は何も言えなくなり、できなくなる。

言うことをきかないと私がキレるので、私の言うことは黙って100%守る。それが彼の自主性を奪っていたことに気づいたのは最近のことです。

高校受験の際に、なんで自分で計画を立てて勉強することができないのか、と怒ったら、珍しく感情を爆発させて泣いたのです。「やり方がわからない」と。

それに小さな頃から、私にダメ出しばかりされて育ってきたので、自己肯定感がものすごく低いんですね。周囲ができると言っても、自分にはできないと言い張る。5歳くらいの時にアスレチックへ行き、高い場所からのロープ滑走をやってみる?と尋ねた時、「人に見られるのが嫌、人に教わるのが嫌、ヘルメットかぶるのが嫌」と普段無口なくせに一気にまくしたてたのが忘れられません。

授業中も挙手しての発言が少ないらしく、それは多分「間違えると恥ずかしいから」。うまくできれば私に「頑張ったね」「えらいね」と褒めてもらえる、でも、できない自分も含め、ありのままを受け入れてもらうという経験を私同様していないので、「失敗したらどうしよう」と常に心身が緊張している、気が休まる時がないんです。

中学時代の担任の先生が、私の苦手な体育系の若い女性だったんですけど、家庭訪問の時に「Kくんは、もうちょっと周囲の人を信用できるようになると、色々積極的になれると思うんですけどね」と仰っていて、この人すごいな、と思いました。結局、息子は私と同じように、「絶対的な味方がいない」世界の中で育ってきたのです。

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人は育てられたようにしか育てられない?

小5の時には、体のあちこちにつねられた痣を作って帰ってきたり、服を破られるなどかなり乱暴な子のターゲットになっていたのですが、私はその時も息子に、「なんでやり返さんの。嫌だったらいやだって言えばいいじゃないの、黙ってるからやられるんよ。あんたにも相手をそうさせる要素があるんじゃないの?」と言ってしまったのです(もちろん、いちばん言ってはいけないことですね)。

で、私とは正反対で愛情深い夫に、「親が味方してやらなくてどうする。オレだったら相手の家に怒鳴り込みに行って相手の子に同じことしてやるね」とめっちゃ怒られて反省したり。

でも、人は、育てられてきたようにしか、育てられない。私には、温かく人を包み込むとかが、どういうことかわからない。親に近づくたび邪険にされる。お前さえいなければ離婚できたのにとずっと言われてきて、自分さえいなくなればいい、自分なんか存在する意味がないとずっと思ってたから・・・

そもそもこんな私が子どもを持ちたいと思ったことが間違いだったのか。子どもは私のもとに生まれてきて幸せだったのかと、絶対の愛情を注いでくれる父親と離れてもろもろ不安定な私と暮らすことで二人の性格が歪められてしまったのではないか、そういう申し訳なさは今もずっと胸の中にあります。

ただ、私が自分の親と違うのは、子どもに小さな頃から「大好きだ」って伝えてることとと、自分をダメな親だと認めていること。そして嘘をつかずに子どもにありのままの姿を見せること。不機嫌で口をきいてくれない母親が何を考えているのかわからず、「自分が何をしたのだろう」と考え続ける日々ほど嫌なものはなかったから。

息子に伝えたいのは、一つだけ。

世の中はそんなにひどいところじゃないよ。誰もあなたを馬鹿にして笑ったりしない。

もちろん生きていればたくさんつらいことがあるけど、Kの誠実さや優しさは友だちに伝わってるはず(と歴代の先生もみんな言っていたよ)。友だちや、やがてできるパートナーがきっと味方になってくれる。

ちょっと勇気を出して心を開いてみたら、生きるのが全然ラクになるよ。お母さんはそれに気づくのに50年もかかってしまったけれど・・・

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基本ご機嫌なKの心をぺしゃんこにするのは、いつもお母さんだったね、つらい哀しい思いをたくさんさせて、本当にごめん。お母さんもそうだったように、親元を離れて独立してから、Kの本当の幸せが始まるのだと思います。大好きなお父さんと離れたり、お母さんは病気したり、つらいこといっぱいあった分、きっと未来は明るいよ!

毎朝、自分から「おはよう」と言ってくれてありがとう。帰りが遅くなった時に洗濯物を入れてくれてありがとう。わがままな弟の面倒を見てくれてありがとう。乳がんの手術の後、ノンアルコールワインを一緒に探してくれてありがとう。

生まれてきてくれて、ありがとう。

 

長文最後までお読みいただき、ありがとうございました。